「世界は存在しているから存在しているのだ!」と考えてしまいがちですが、哲学の世界には「存在論」という分野があり、かなり理論的に考えさせられる解説をしています。存在論は「人間だけがこの宇宙や世界の構造を理解し、世界が世界であることを認識できる」と世界について説明します。どういう事かというと、人間以外の生物には世界の有機的な関係というのを理解したり考えたりすることができないということです。例えばライオンは百獣の王と呼ばれていますが、自分が立っている場所が台地であり、上には空が存在し、食物連鎖の頂点に自分がいるということは想像することもできず、ただ目の前にいる動物を食べて生きています。なのでもし人間が滅びてしまったならば、誰もこの世界が「世界」であることを理解できず、たとえ世界が物質的に存在していたとしても、世界の「意味」は無くなってしまいます。
傲慢ではなく「人間が世界を創っている」と言えるのですが、では「世界とは何か?」と考えてみると「私が存在し、生きていくための環境」となります。私という存在は過去の先祖からの奇跡的な命の連鎖によって今この地球上に存在している尊いものです。では、その私たちが存在している世界はどうかというと、同じように信じられないような奇跡のような確率によって生まれました。この地球を見てみると、太陽の周りを絶妙な重力バランスを持って回転を続け、水が発生し、空気が発生し、植物や生物が誕生するという奇跡のような確率の中で存在しています。
その中でも人間は生物界で最高の進化を遂げて、信じられないような複雑なたんぱく質の有機体と言われています。例えば人間の脳の構造や働きを分析すると、この宇宙にも匹敵するほどの複雑な構造と能力を持っています。例えるならば人間は、「宇宙の中に宇宙が存在している」と言えるくらいの複雑で貴重な存在なのですが、数が多すぎるのかなぜかこの世の中ではそれほど価値がある存在としては考えられていない風潮があります。しかし、人間の「本来の価値」というものに立ち返ってみると、この世界は最高の価値を持つ人間が存在していくために、奇跡的に準備をされた最高の環境であるということができます。
世界は人間が存在するための環境として存在しているために、世界が存在する目的は「人間が存在する目的」とほぼ同じものになります。「人間がなぜ存在するのか?」については前ページ「人はなぜ生きるのか?」で説明しましたが、「愛」というものを知り、身に着けることが人生の目的となります。
そのためこの世界、とくに自然を観察し振り返ってみると、人間が「愛の教科書」として学ぶべきものが多く存在します。あたかも鳥が空を飛ぶのを見て、人間が飛行機を発明して飛んでいるのと同じように、私たちは自然界を研究することによって「愛」というものを学ぶことができるようになっています。例えば花は「おしべ」から「めしべ」まで花粉を虫に運んでもらうことによって繁殖をしますが、花は自分を生かしてくれる昆虫のために「葉っぱ」を多く生やして外敵から守っています。また、魚のサケは自分の子供を産むために最高の環境を探して海から川の上流まで遡っていきます。そして卵を産んだ後には力尽きて死んでしまうのですが、それは自分の子供のためには自分の命もいとわないという親の最高の無償の愛というものを私たちに教えてくれています。
このように自然界には愛があふれているのですが、残念ながら私たちは自然界から愛を感じたり、発見をすることができないという「愛への無感性」の問題を抱えています。なぜ愛に対して無感性なのかというと、「本当の愛」というものを受けたことがないからです。人間が生まれて初めて出会う人間は「親」ですが、「親との関係」というのが私たちの人生を決定づける大きなカギになります。大部分の場合、愛というのは親から受けることになります。しかし、さまざまな理由から親から愛を受けることができないことは世の中には存在します。
だからといって解決策がないわけではありません。なぜならば親というのもある意味、先祖から来る「愛」のながれを子供に受け渡す「バトン」の役割に過ぎないからです。それでは「親の代わりに誰が私を愛してくれるのか?」というと、それは私を一番よく知ってくれている「私」という存在です。