人はなぜ生きるのか?

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「人はなぜ生きるのか?」と考えようとした時にすぐに思い浮かぶのは、「どうせいつか人は死ぬのに生きることに意味はあるのか?」という疑問です。またそれとは全く逆の考えとして「生きることにそれほど意味はない。むしろ死んだ後の世界に意味があるのだ!」という根深い思想もあります。しかし、多くの賢人たちの研究の中で明らかになったのは「死んだ後の世界があったとしても無かったとしても生きる意味にはそれほど違いはない!」という発見です。「死んだら何もなくなる」「死んだ後にも何かの世界がある?」という2つの思想の違いによって「人はなぜ生きるのか?」の見解が全く変わるため、整理する意味も含めて両方の立場で書いていきます。

「死んだら何も無くなる」という立場での生きる意味

「死んだら終わり。何も無くなる!」と考えた時に、「ではそもそも人間や人生とは何なのか?」という疑問が湧きます。この疑問に答えるには「人間は自然から発生した動物である!」という事実が謎を解くヒントになります。私たちはコンピューターや機械などのテクノロジーにあふれた社会の中で生きているために忘れがちですが、人類の歴史を見るとそもそも人間は原始的な「狩猟生活」を行っていた期間が圧倒的に長く、農耕が始まってからの文明社会というのはごく短い期間にすぎません。ですので私たちの肉体には「動物的な本能欲求」がしみついていて、本能的に現代文明社会のような環境にはほとんど対応しきれていないと言えます。

「動物的な本能欲求=人が生きる意味」と言えますが、では動物の持つ最も大きな本能欲求は何かというと「種を残し増やす」事です。例えば動物世界では、自分の相方となるメスが浮気をしているとオスがメスを信頼できなくなると言います。オスの立場からすると浮気をしているメスの産んだ子供は自分の子孫なのかが分からないため、強烈なストレスを感じてそのメスが嫌いになるという研究結果があります。子孫を残すことが動物の本能的欲求の「最高の満足」であると考えると、現在の社会は経済的な問題からどんどんと結婚や出産が難しくなっていることから、人間が動物的な本質の幸福を感じることが難しい状況に追い込まれていると言えます。

また、アフリカや南米のように単純に「とにかく子供を多く産めばよい」という理屈で子供を産み増やせば、人は幸福を感じられるのかというとそうではありません。自分の「種」が子々孫々まで増えていかなければ人は本当の満足を感じられません。では、子供が子々孫々まで繋がっていく秘訣は何かというと、それは多くの心理学者が主張するように「家庭環境」であり、そこで植えつけられる「愛」だと言えます。愛のあふれる家庭の中で成長をしてこそ子供は正常に育ち、生まれたことに感謝をして、自分の先祖からの血縁を自分の子供につなげていこうとします。愛のない家庭で育つと、自尊心が十分に育たないために自分の存在の価値と人生の目的が不明確になり、ただただ生きるために生きる人生になってしまいがちです。もしあなたが明確に「愛」というものが何か分からなければ、第一歩として「愛」の意味と価値を知っていくことが人生の大きな目的になるでしょう。

「死後の世界がある」立場での生きる意味

「死後の世界がある」という考えに否定的な人は多いですが、なぜそれを信じなくなったのかという理由を調べると、「死後の世界があると主張する人にろくな人がいなかったから」という意見が多くあります。これはいわゆる宗教の弊害のような話で、「あの世で自分が良い場所にいけるならば、この世で理不尽なことをすることも厭わない」という間違った考え方をしているからです。つまり本当の意味で「何のために生きるのか?」を分かっていないため、人の嫌がる迷惑のかかる生き方を平気でしてしまうということです。

では「死後の世界が存在する」という立場で人生の意味を考えると、いま私たちが生きているのは「死後の世界に行った時の準備をする」ためであると言えます。ここで重要になるキーワードは人間の「魂」の存在で、「死後の世界があると信じる=人間の魂は存在し永遠に生きると信じる」という思考の構造になります。「人間の魂は(あの世のような)超越した世界からやってきて妊娠している赤子の肉体に宿り、人生の様々な体験を通して成長し、肉体が滅びたのちは再び超越した世界に帰っていく」というのが、古今東西のあらゆる宗教でほぼ共通して主張している内容です。

では「生きているなかでの様々な体験」とは何かというと、それは先ほど説明した「愛」になります。あらゆる宗教は共通して「人のために良いことをすれば天国に行き、人を傷つける悪い生き方をすれば地獄に行く」と主張しますが、それはすなわち「愛」を持った生き方をするべきであることを強調したいからです。人は「人を愛する」もしくは「人から愛を受ける」ことにより魂が成長をして、魂が成長する度合いによって、あの世での行動範囲が広くなるという結論になります。これはこの世で肉体が成長するほど行動範囲が広がり、見識も広くなるということと相似しています。

ここで面白いのは「魂」の存在を前提とすると、ギリシア哲学の影響から「肉体の愛=自己中心的な低い次元の愛、魂の愛=無償の高度な愛」という定義がなされ、愛に対する「こだわり」が生まれます。肉体と同じで子供のころは質よりも量であるので、自己中心の愛であろうが利他的な愛であろうが、とにかく多く何かを与えられて、かまって貰えれば人は満足なのですが、歳を取ればとるほど「愛の動機」に敏感になり、少しでも良いので本当に純粋で真実の愛を人は求めるようになります。また、結婚というのがなぜ素晴らしいかというと、配偶者や子供という自分以外のものを愛することが「利他的な愛」にも関わらず、与えれば与えるほど逆に「自分自身」が豊かになるという、「自己中心的な愛」の性質を同時に持っているからです。

人がなぜ生きるかの答えは「この世界で愛というものを知り、身に着けること」ですが、人がなぜ生きるのかと同じくらい疑問に思われている「世界はなぜ存在するのか?」について次のページで説明します。

世界はなぜ存在するのか?

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