愛がなぜ大切であるのかについてはこのサイトで何度も説明していますが、愛についての人々が持っている大きな勘違いとして、愛というものを何か自分の中に宿る「エネルギー」のようなものと錯覚することです。愛というのは人との関係のなかで感じられ育てられていくものなので、人間関係が希薄であればそもそも「愛とは何なのか?」を理解することができません。また、本を読んだり知識をいくら増やしたとしても、実際に人と接することがなければ自分の愛の器というものが広がることはありません。
人というものは私たちが想像するよりもはるかに価値のある存在であると説明しましたが、人が大切であるのは当然のこととして、実は人と人との「関係」というのも人以上に大切な人生の秘訣と言えます。例えば異性に対して同じようなアプローチをしたとしても、ある人が行った言動は愛として相手に伝わり、また別のある人が行った言動はセクシャルハラスメントとして相手が受け取ることなどが頻繁に起こったりします。
これは愛情というエネルギーが自分自身の中にあふれて、自分の中にあるうちは純粋な動機であったとしても、「愛」として相手に表現されるときに、愛の表現が未熟であれば、相手に「害」として伝わってしまうからです。心理学者のエーリッヒフロムは「愛は技術である」と説明していますが、愛が愛として存在できるかはその人の人格の成熟にかかっているために、私たちは生涯をかけて愛の技術を習得している技術者であるということもできます。
「関係」と「愛」を考えるときに、切っても切れない重要なものとして「信じる」という問題にぶつかります。日本の文学を振り返った時に、夏目漱石の「こころ」と太宰治の「人間失格」がいつの時代も1位と2位を争っていますが、根底的にどちらの本も「人間不信」をテーマにしていて、それが日本人が最も共感するベストセラーになっています。現代社会を見てみると、国にもよりますが「家族と親族は絶対に信頼する」というスタンスか「誰も信頼せず自分自身を信じる」というどちらかのスタンスに分かれます。しかし、日本人は自分をそれほど信じられず、家族や親族にもそれほど強固な関係性を持っていないが、日本人という民族意識は浅く広く持っているという独特な関係性の文化になっています。
その結果、「何を信じれば良いのかよく分からない」という信頼関係の課題を持っているのが日本人です。しかし、怖くてもまずは自分から人を信頼して心を開いていくことが、他者との関係を築いていく第一歩になります。愛というものが成熟していくと、例えば「母親がどれだけ子供から裏切られたとしても無条件に信じ続けられる」ように、人を信じることができるようになっていくものですが、まずは「一人」の人と信頼関係を築いていくことが、多くの人と信頼関係を築くことができるようになる第一歩となります。
そのような信頼関係の中でいわゆる心理学でいうラポール(緊張がなく、心を開いた状態)の関係が築かれ、人との関係性は始まっていきます。「どうすれば人との関係は深まっていくのか?」と複雑に考える人は多いですが、私たちが住む社会の基本単位は「家族」であるため、家庭の中でやっていることを他人ともおこなっていけば自然と関係は深まっていきます。
つまり共に食事をし、共に行動をし、共に休み、共に生きることです。一緒に食事をして会話をすると何か関係が深まったように感じるのは、その人が他人から家族へと一歩近づいたように認識するからです。愛というものは私の心の中にあるのではなく、他者との関係性の中で芽生え、はぐくまれ成長をしていくものです。そして、愛が成長すると魂に変わっていきます。愛する人と永遠に共に生きたいと思うようになる理由は、関係性のなかで魂という永遠に生きる存在に愛が昇華していくからです。